ホワイト羽川にゃん!

障り猫……忍野メメをきどって説明すると、

・車に轢かれた尾のない白い猫を埋葬した者に取りついて性格を豹変させる。
・取り憑いた人物に憑依しストレス発散を肩代わりする。
・恩を仇で返す怪異で特性は常時発動型エナジードレイン。

てな感じみたいだけど、障り猫に限らず物語シリーズに登場する怪異は西尾維新のオリジナルが多いらしい。

ブラック羽川について調べてみると、

・羽川翼のストレスが限界を超えると発現する怪異。
・翼の姿をとりながら人格は怪異に完全に乗っ取られ、ストレスが解消するまで元に戻ることはない。

てな感じだ。

羽川の負の心から生じた怪異という存在に目を奪われていたが、要するに二重人格みたいなもんだと仮に定義してみる。いや苛虎も加えて三重人格か。苛虎はブラック羽川と違って羽川本体から分かれて別物になっていたから無理矢理だろうか?ならば、三つの魂と定義してみよう。うむ。こっちの方がしっくりするかも。

要するに、これは魂の問題であり、精神アップロードやAI自我が研究対象になってきた昨今においては科学問題でありSF問題として扱えるのである。では、魂とは何かを考えながら羽川の心情を分析してみたい。

最初に宣言しておくが、物語シリーズの根幹設定たる怪異を否定しているわけでもない。怪異にも魂があるという話であり、怪異が何であるかという話とは別問題であるので、以下の一人語りを読む際は御注意を。

手始めに思考ポイントとして抑えておきたいことがある。羽川の障り猫の知識がどの段階でどれ位あったのか?ここで言う知識とは本屋で得るそれでは無い。知ってることだけしか知らない羽川のことではあるが、類推する知力・センスも抜群なのは物語シリーズを堪能している誰しもが異論は無いことと思う。さらに物語の発端となった暦の闘争に危険を顧みず首を突っ込んだのは暦への想いの前に、むき出しの好奇心があったからだ。羽川の質量ともに尋常ならざる好奇心は超ストレスが育てたとも言えるだろう。ならば、そこにある魂はどうなるのか?

一にして全、全にして一。
ボクの魂論は、クトゥルフ神話のヨグ=ソトースからヒントを得ていたりもするが、その根本は手塚治虫の火の鳥だ。また、魂と魂が引き合うという魂が少なくとも二つあることを大前提にしてしまう思考停止的な表現は、人間社会の営みに似ており分かりやすく印象も受け入れやすくはあるのだが、正しい解釈を踏み外すことになってしまうだろうとも思う。ボクの魂論は主とか副とかの依存関係は介在しない。魂が三つに分かれたりする発想はそもそもが筋違いと考える。それは羽川の場合にも適用できるだろう。

車に轢かれた白猫を弔ったことがスイッチとなり障り猫が具現化した。それは他人から見た外面の評価でしかない。羽川という複雑な生き物が次へ成長するために必要なステップだったとしたら、理解しやすくはないか?秀才、羽川の場合は次へ成長するため、自らの情報収集、類推によって羽ばたくべき時への準備を進めていた。そして、ブラック羽川や苛虎という自分という殻の中にある魂の変形に触れて、自らの人生を切り開いたのだ。

それに、義理の父親に殴られて、暦に舐められて……じゃなくて血を塗られて治療されたことによりスイッチが入ったのかもしれない。スイッチが入った白猫を呼び寄せたのは羽川であり、それによって白猫は自動車に轢ひかれたのではないか?轢かれる前の白猫は生きていて、そこには魂があった。埋められる前から羽川との魂のつながりは始まっていたと考えるのが普通だろう。轢かれて死んでから障り猫なのか、轢かれる前から障り猫なのか、忍野の説明「銀色の尾の無い猫」から推測するには、もともとそういう化物であり、轢かれることが能力の一つなのだろう。心の中で慟哭している羽川を察知して、近づいて、見つけてもらえるような場所で、轢かれた。そういうことなのだろう。だが、ボクの魂論では魂はもともと全宇宙で一つだ。それが個々の体に足を突っ込んでいるようなイメージ。羽川と障り猫が一体化という専門家、忍野の見解は間違っているとは思わないが「魂と呼ばれる正体」までは突き詰められた見解ではない。なぜなら、そんなもの推測の域を出ないからだ。世界線も知っている忍野が直観的に悟ってる可能性も否めないが、他人の考えてることなど100%分かるわけはないし魂のことならば更に分かるわけがない。自我が、魂が、他人に有るのか無いのかは、その問いかけ自体のジレンマ的に答えは無いのだ。専門家としては仮定で退治をすすめていくしかないのだ。

もちろん、正確に分析するなら街全体、物語全体としての魂論を展開する必要があるのだが、それは『一にして全、全にして一』であるなら応用でしかないのでここでは語らない。物語シリーズの怪異とは、魂の様々な見え方を分かりやすくエンターテイメントにしてると言える。ならば、ボクたちの世界の怪異も同じように考えることが可能だと思う。それは怪異という特殊なものではなくとも、人間の変化に富んだ魂を解き明かすことにも繋がるだろう。

人間こそが怪異。そんな放り投げたファイナルアンサーで締めくくるのは、いささか手抜き感も否めないが、物語シリーズという珠玉のアニメを、これからも何度も観るたびにボクはSF的解釈を加えていく。小説を最初から再読するのはもう少し先になりそうだが、最近出てるマンガは繰り返し楽しんでいる。少し違った角度から別のテキストが編まれているのだが、これがとても読み応えがあり参考になる。

障り猫の新しい活躍と解釈が楽しみだ。