SF要素の詰め合わせ。それが『進撃の巨人』という作品の正体であることは多くのファンが認めるところだろう。エンタメ作品として格別に優秀であり特別にユニークでもある。衝撃波を立て続けに浴びる感覚。凄過ぎて何度でも素直に脱帽してしまう。綺羅星のごとく素晴らしい作品が並ぶエンタメ史の中でも『進撃の巨人』は燦然と輝いているのだ。
普通の仕分け方だとサイエンス・ファンタジーと呼ぶのが妥当な作品ではあるが、真の姿は神話の領域に近いだろう。本来、神話をファンタジーかSFか、あるいはそれらの中間なのか、そんな風にカテゴライズするのは良くない手筋だ。くだらぬことを考えずに、その世界設定を受け入れて、ただ味わえばいい。だがしかしである。あまりにも美味、珍味なSF要素を咀嚼せずにはいられない。
そして、SF考察として最も興味深い対象は、もちろん巨人である。
・突如として出現し、門を破壊する超大型巨人。
・調査兵団ハンジ・ゾエの巨人についての発言。
これだけで極上のSF考察をモリモリできる。
巨人とは大質量兵器である。大きいことは強いこと。圧殺への恐怖は当然のこと。ウドの大木という言葉があるが、この世界の巨人は普通の人間にとっては普通な驚異。我々も共感できる。……その大きさに比例した圧倒的存在感は有無を言わせない暴力だ。超大型巨人は膝から下を後ろに振り上げからの~爪先蹴りで堅牢な壁門に風穴を開ける。
狂気の巨人研究者、ハンジは言う。
巨人の身体は軽い。そもそも、
あの巨体が二本足で歩くなんて出来ないはず。
その質量にあるべき重量には達していない。
と。うんソコなんだよね。
壁の高さを超える60メートルの巨人が魔法にように現れる……これを科学的見地に立脚するSFと言えるのだろうか?
……いや!確実にSFだ!
理解できないテクノロジーは魔法のように見える。これは我々の人類史においても経験済みだ。
ハンジは直感的に理解している。
私たちに見えているモノと
実在するモノの本質は全然違う。
それは探究者として正しき資質であり、現状の知識を真理としない謙虚で慎重な態度だ。SF考察の中には自らの知識を至上として思考停止しているような発言があるが、正しき資質を持つ探究者を志すならば、他への影響を考慮しつつ注意を払う必要がある。SF考察とは、未来に向かって進化するべく冷静さと情熱に溢れている。発想の飛躍をもって対象となる作品の可能性を図ることも可能だろう。実存する大量殺戮兵器の考察は専門的知識が必要となるが、巨人の考察は自由な遊び心をもって展開してこそ効率的であり、実在世界に応用しやすいと言える。そんな絶妙な考察フィールドを『進撃の巨人』は提示してくれているのである。これをSFと呼ばずに何と呼べばいいのだろう。カテゴリーとは広義と狭義があるとは思うが、狭義においてもSF分野に属するのは確定だ。マニアのSF思考が刺激されているのが証拠であり、普段のライフワークにおいてSF考察をしたことのない者にとっても、新たな楽しみ方を提供してくれるSF作品なのである。
さて、
よくあるパターンのアイデアで構成されたスペースオペラ作品をSFとするならば、『進撃の巨人』を超ド級ストライクなSFと評価しても過言とは思わない。SFジャンルの根拠とされるセンスオブワンダーについても十分な要素で構築されているだろう。なぜなら過去にセンスオブワンダーが有るとされたスペースオペラ作品を明らかに凌駕しているからだ。古いスペースオペラ作品と比べる意味はないかもしれないが、SFぽいパーツを並べただけのものをSF作品とは言えないのである。これは2026年においての正しいSF評論の在り方だとも思う。
もちろんSFの古典とされる作品群の中には、今もなお、輝きを失わず若いファンのSF的好奇心を刺激し続けているものもある。その一方で、当時はセンスオブワンダーに満ち溢れているとされた作品が、時間が経過したことでセンスオブワンダーが明らかに劣化していることは普通に有ると思う。それを聞いて「いや、劣化することなどない!」と確信している人もいるだろう。うん。君が、そう思うのならば、それは尊重する。それは君のSFの未来に続いているものだ。僕や他人がとやかく言えるものではない。だが、センスオブワンダーはノスタルジーに依存してはいけないと思う。それぞれの状況で受け取り、感じるものだ。
「センスオブワンダーが有るか否か、それに気付かないSFファンは馬鹿だ。そもそもSFを分かってないのだからSFファンじゃない」
……そんなSF警察的な論法は、SFを衰退させる行為に他ならない。
初代ガンダムについて、SF論議が白熱したらしき時代の「センスオブワンダーは各人それぞれ」という意見に大賛成だ。少なくともジオン軍のコロニー落し作戦に、僕が身を震わせたことを他人に否定はさせない。それは僕にとってのSFだ。自由であるべきSFを閉塞させる不確かな見識の何者かが捏造した謎定義や、商業的権威を振りかざすような実は説得力に欠けた押し付けなど、SFを己の枠組みに嵌め込もうとするナンセンスな行為である。
SFを固定化するのはSF進化の終焉だ。SFは、SFが故に、固定の定義であってはならない。SFを狭い範囲でしか捉えられない連中にすれば『進撃の巨人』をSF推しするのも馬鹿げている行為なのだろう。だが、SFに限らず、推し作品に考察を加えることは受け手の自由であり、作者でさえも気付いていない境地に達せるかもしれない。それは、特に、SFを愛でるSF野郎どもの高尚かつ下劣な嗜みだ。そんな楽しみ方を試さずにはいられない作品が目前に有るのならば反射的に考察してしまうのは当然であり、限られた人生の時間を削いででも、意図的に何度も考察を重ねることは大いに価値がある。
作品に触れた瞬間、己が信じている範囲のセンスオブワンダーを感じられないからといって「あ、これはファンタジーだね」と軽率に断じてしまうなんて凄くもったいない。勢いある進撃展開に圧倒されて、深掘りや突っ込みをするタイミングを逸してしまうのも確かではあるが、言い換えると後で何度でも噛みしめる厚みが有るということなのだ。その奥底に「センスオブワンダーというお宝が眠っているのかも!?」と、不穏な知的興味を加熱しながら後日のSF考察タイムをワクワクしながら味わえるなんて最高じゃないか!
昨今、何気なくSF要素をブチ込んでくる作品はどんなジャンルにでもある。例えば、今や現代以降モノならば普通にAIネタを基本設定として仕込んでも極自然なことだ。なればこそ、遥か昔からある『謎と普遍的テーマの融合であるミステリージャンル』の側面をも併せ持つ『進撃の巨人』は考察対象として高度に複雑な体裁を成している。物語の最初から最後まで巨人という絶対存在はその中心にそそり立っている。この作品の巨人探究は単純なアプローチでは済まされないのだ。
月刊NewType(2013年12月号)の作者談によれば「巨人は、見た目から推測される体重の1/3ぐらい。物理法則がねじ曲がっている」というような設定らしい。その一端を科学属性のハンジにも語らせているということは「決して魔法ではない」という事を言いたいのだろう。それを聞いて「はいはい、異世界の物理法則ね。御都合だね」と笑う科学派きどりの輩もいるかもしれない。しかし、それは馬鹿丸出しな反応だ。現状の科学知識を用いてファイナルアンサーとするのは既に敗因である。21世紀の地球人類の科学知識など、宇宙の真理に少しだけしか触れられていないのだ。成熟途中の物理法則だけを全知全能であるかのように評価するのは間違っている。『進撃の巨人』は決して魔法世界ではないし、我々の世界と重なり合う世界とも言える。現状の地球科学では説明できない超常現象と言ったほうがしっくりくる。そこにはリアルな可能性が秘められている。
巨人の考察について、次の三つに分けて考えるのが良いだろう。
①ユミルの巨人化
②巨人の基本性能
③各巨人の特性
①ユミルの巨人化については蟲師の投稿↓を見てみてほしい。「光るムカデ=蟲」とする考えとなる。「光るムカデ」の見た目モデルとなってるらしい、ハルキゲニアという名の約5億年前(カンブリア紀)の海底に生息していたとされる小型生物(体長約1〜5cm)を【蟲】とすれば良い。そして、その【蟲】は何者なのかということを考察してみるのも楽しいだろう。これ以上、深掘りすると趣旨から外れて宇宙レベルの話になってしまうので割愛する。
③については他でも十分に考察されているだろう。
各巨人の特性はエンタメ的に分かりやすく面白いところだからね。
ここでは②巨人の基本性能に注目してみたい。
①③に波及するとは思うがボトムアップ的に考察しないと、この超設定大作には太刀打ちできない。
先に述べたように、ユミルを始祖とするエルディア(ユミルの民)巨人は、かなり軽い。想像するに15m級が1/3だとして、3m級が2/3ぐらいじゃないかな。人間との比率として、大きくなるほど重量比率は軽くなっていくというイメージ(超大型巨人は半減している可能性もあるのではないか?それでも凄い重量ではある)。しかし、頑丈さにおいては見た目通りだとしたら、そこには進化あるいはテクノロジーというSFワードが浮かんでくるのだ。軽くて硬い生物には甲殻類や昆虫があるし、ナノテクや高分子化学などの未来系技術。巨人は人類の可能性を凝縮している設定と言えるのだ。ハンジは技術革新のヒントに歓喜しているのである。
巨人は何もないところから出現するのではなく人間が変身するものだ。その質量技術はどのようなものだろうか?安易に考えると、大気や大地から不足分を補充しているということになるが、作品の演出から分析する限りはそのようには見えない。であれば「どこか遠くから不足分を呼び寄せている」と考えるのが妥当だ。変身する際のエネルギー演出も証しとなり得るだろう。ゆえに始祖ユミルから【道】を通してエルディア巨人変身の不足分を得ている構図が自然と言えるのである。どこから、もたらされた技術なのか?という問いには【大地の悪魔】と呼ばれる上位存在からもたらされた、という答えとなる。上位存在とは【光るムカデ】を使役する神的存在だ。
つまり【大地の悪魔】≠【光るムカデ】と考えてみる。これには【光るムカデ】がユミルにの能力を与えたときの描き方は神秘的だが、最後に現れたときの怪物化している姿と比較すると少々違和感があることから妥当であると思う。このへんは宇宙的視点で解釈しないと重厚な作品としての構造を壊すことになるからだ。全てが解決して巨人の力がユミルの民から無くなるのは2000年の物語設定としては綺麗に完結している。しかし、あの気持ち悪い怪物【光るムカデ】は綺麗とは言えない。正直、今までの計算されたストーリーにおいてのラストを飾る要素の一つとしては汚物と思えてしまうのだ。人間の穢れを吸い取って、あんな姿になってしまいました……とするのが何とか納得できそうな線ではある。が、やはりここでもSFスケールに視野を広げる方が分かりやすいと思う。【大地の悪魔】が【光るムカデ2号】をもって再契約すれば巨人テクノロジーは復活するのである。大団円にいちゃもんをつけたいわけではない。SF考察というものは物語の前と後にもアイデアを巡らせるべきなのだ。
【道】が【大地の悪魔】の管理下にあるとすれば物質移動とはどういったものなのだろうか?遠いところからの瞬間移動的な物質転送。そんなところが出発点だろう。同じ宇宙か別の宇宙かは分からない。エレンによれば【死さえ存在しない世界】は「全ての【道】が交わる座標」なのだという。それが巨人供給システムの結節点のようなものなのだとしたら、ユミルが求めたから出来た世界とするのは違和感がある。巨人を作り続けるユミルに材料を与えているのは【大地の悪魔】側とするのが自然だろう。ユミルが巨人になれた契約とは、ユミルの子孫を差し出すことが条件だったとも言える。しかし、優しいユミルが受け入れはしないだろう。【大地の悪魔】は【種】の進化をユミルに提案したのではないか?人間が個から集合体へと進化するには試練を超える必要があり、それがユミル神話となり物語を紡いだのだ。
エレンは言う。
「始祖の力がもたらす影響には過去も未来も無い…同時に存在する」
と。この発言の際にエレンは少々困惑しているようだが、集合体という在り方を理解できていないなら仕方がないことだ。また時間概念についても常識的に拒否反応が先に立ってしまうだろう。なにより自らもユミルの一部として試練に臨んでいる途中なのだから。時間概念を排除することは時間概念に囚われている我々にとっても極めて難しいことであろう。「進撃の巨人」の能力の解釈に、過去や未来といった概念を交えるのは、そもそも考察方法自体が間違っている可能性を認めなければいけないのである。
巨人化を解明するマーレ政府巨人化学研究学会の成果は、ユミル集合体の社会的ハイブマインド化を促進させる効能がある。九つの巨人の脊髄液を、注射や経口投与によってユミルの子孫に与え「無垢の巨人」で争うことは、ユミルの民の一体化を促進させる。つまりマーレ政府はユミル進化のお手伝いをしていたということになる。旧エルディア帝国時代の巨人化・学によって生まれたアッカーマンの血統は【道】を通じた部分ハイブマインドと言えるだろう。その研究方法を想像するに何らかの精神的隔離を行ったのではないかと推測している。集合体になろうとしているユミル一族の一部を切り取る実験だったということ。まぁ偶然の産物だというのは間違いないだろうが、個のハイブマインドという不安定な状態を維持させる一機能として考えられる。そんなユミル種の拡がりを【大地の悪魔】は観察しているのである。
マーレ人にとって、生物学的に自分たちより進化しているように見えるエルディア人は忌むべき悪魔であり、畏怖する対象でもある。社会制度によって新人類をコントロールするしようとするのは旧人類の基本オペレーションではあるが、いずれ破綻することが目に見えているし、名誉マーレ人制度は実際に破綻した。旧人類と新人類のどちらが生き残るべきか?人類進化をテーマにした作品の根幹となる世界設定だが、「進撃の巨人」は当てはまると思われる。共生できなければ最後は何かが駆逐されるのだ。
フィリップ・ワイリーの『闘士(Gladiator)』という作品がある。アニメ雑誌で初代ガンダムのニュータイプについての解説の中で紹介されていたSF作品の一つだ。強大で特殊な存在になりながらも仲間に囲まれたエレンを見ていると、この作品を思い出してしまう。科学者の父親による人体実験で、超人的な身体能力を得る主人公ヒューゴ・ダナー。彼は苦悩する。人間という種の能力を遥かに凌駕してしまったために社会に溶け込めないのだ。いや溶け込むことを許されないというべきか。1930年の作品で1931年のスーパーマンの元ネタとして知られ、人間社会も受け入れらるクラーク・ケントとは真逆の立場として孤独な悲哀を描かれている。
エレンは孤高の道を自ら選択して始祖巨人のスーパーパワーを行使しようとした。新しき者による旧き者の駆逐は真っ当な流れとは言える。しかし、もう一つの真っ当は新旧の融合であろう。エレンの想いは残された者たちの成分となる。通常ならば新が旧を取り込むのが普通だろうが、旧が新によって変化するというパターンもある。物語の終わりは始まりだ。すなわち進化も続いていく。ハイブマインド化は継続される。ユミルによって爆誕した【ユミルの民】という集合体はエレンによって進化した。物語の終焉と共に一時的な停滞があったとしても【個の想い】は引き継がれていくものがある。それを活かすように残された者たちが新世界を再構築していく。進化の進撃は止まらない!
予定にはなかったが個から集合体への移行期のイメージができたと思う。他人の作品に自分なりの屁理屈を適用する行為は素のアイデアを汚すことだとが、これが僕のSF考察であり、センスオブワンダー探究だ。想像力を喚起してくれるならば、その作品のポテンシャルとも言えよう。通常の考察ではなく、SF考察が別物という意識を持つことは、横暴なSF警察官とならないための一手法であると思う。センスオブワンダーが発見できないなら発明すれば良い。
最後に。ハンジは燃え尽きてエルヴィンらかつての仲間たちと再会を果たす。
そこは天国ではなく、個としての志を終えてユミル集合体の一部として溶け込んだシーンなのである。
◆加筆予定メモ
・ミカサとユミルの関連
・光るムカデの最期の意味
・A・E・ヴァン・ヴォクト『スラン』との類似性考察
