蟲=ナノマシン的な

SFとして蟲師を見てみると、とてつもなく興味深い。創作欲が刺激されるようなアイデアに充ちている。何度も繰り返して楽しんでいると作品の底が理解できてくるものだが、牧歌的とも言えるストーリーテリングでありながら、味わうほどに新しい想像力が喚起されるので、そのポテンシャルは計り知れない。その原因が【蟲】の存在であることに思い当たり、さらに面白くなってきたよ。エンタメにおいて【魂】という概念は、「なんとなく」語られるが、それと同様の構図になっていると思う。【蟲】を当然の存在とばかりに説明されると、受け入れるしかなくなるのだ。オリジナル設定を捏造している作品は幾らでもあるが、【蟲】のそれは絶妙だ。それを成立させているのはホラー的であったり、サスペンス的であったりする側面の効能だと思う。リアリティを追究したくなる気持ちが「はぐらかされる」のだ。その不可思議な語り口によって突っ込むタイミングを失ってしまう感じ。秀逸な世界観そのままにポジティブに思わせる素晴らしい空想科学的技巧だ。

さて、このサイトで蟲師という作品をSFとして評価してみようと思ったきっかけは『沖つ宮』というエピソードだ。「生みなおし」という現象はとても生理的に非常に気持ち悪く感じつつも【死】を回避したい人間の性としては未来技術として位置付けられると考えた。理屈を構築する楽しみとして分かりやすい。生みなおされた者の【魂】はどこから生じたものなのか。それは愛する人を失った悲しみと欲望と並行に論じられる。外面だけの評価としては、精神アップロード論議の類例としても違和感は無いだろう。そこまでは良かったが、魂論で思考停止していたことは確かで、【蟲】というリアリティを分析するのは忘れてしまっていたのだった。顕微鏡を覗いたギンコの見立ては、何らかの蟲が創りだしたイクラのような粒の中には『さまざまな生物の【胚~多細胞生物の初期段階の個体のこと】が入っている』そして『その蟲は生物を杯の状態に戻す』というもの。蟲の機能的にはそれで相違ないだろう。「生き物の生きた時間を喰う蟲」というギンコの見解が印象的だ。ここで考えるべきは蟲自体が世界に生じた経緯である。そこで最近になって閃いたのが『蟲=ナノマシン』と定義して検討する手法だ。


神的な上位存在が人間を造ったというアイデアというか思想はありがちだが、それが何のためなのかは人間の想像能力外にあると前提にしたほうが踏み外すことが少なくなるだろう。よくあるパターンは人間および人間社会は上位存在の実験シミュレーションであるというアイデア。蟲師についても適用しやすい。シンプルにまとめると人間のポテンシャル向上のため、人間の限界を知るため、だ。実験体である人間が不幸になることには躊躇しない。むしろ不幸になることでの変化を観察しようとするだろう。人間がマウスに人間への貢献を求めるように、上位存在は人間に宇宙進化への貢献を求めている。

【蟲】はステルス性のあるナノマシンが集合体として様々に機能する。作中に登場する蟲たちの特性の幅から考えると、上位存在であっても汎用的なナノマシンは難しいかもしれないが、実験目的に特化したナノマシンを随時投入するなら現実的だろう。極小テクノロジーの限界がどのへんなのか今の地球人類に突き止められているのかは分からないが、上位存在と言うからには地球人類的には限界突破の領域だろう。きっと【蟲】も副産物の一つに違いない。エヴァンゲリオン第拾参話『使徒、侵入』回のマイクロマシン使徒を想起するところもあるが、対抗策が駆除手法だったことからイメージするに低レベル(マイクロマシンがナノマシンより低レベルという意味ではないので注意)のものだったと言える。使徒の機能は個性的という点で蟲の機能と似てはいるが、第一使徒アダムを造った第一始祖民族は上位存在とは言い難い。ここで定義される上位存在が成果として得たいものは「殺るか殺られるか」といった原始的解決方法ではなくて、ギンコのような【蟲】への接し方なのである。

常闇や、光酒が流れる光脈についての描写などから【蟲】は【魂】に関連している。魂が器に宿るものだとすれば、蟲は人間という不完全な器に『継ぎ』を施してる存在なのかもしれない。それが、ときどき上手くいかないケースがあるということだ。珠玉の萌えエピソード『筆の海』に登場する狩房家四代目筆記者の淡幽は、蟲を害虫として扱うような低能な蟲師たちに辟易としている。異質な存在を迂闊に敵とみなしてしまう地球人類の性根を再確認すると淡幽の気持ちに共感し自省を促す物語構造だ。これには深掘りできる要素があるが、単なる自然賛歌などではなく、宇宙の成り立ちをミクロ視点や精神世界から多様な解釈をもって分析できるものだ。人体の神がかり的な驚異のメカニズムは実際にある。それを【蟲】設定はエンタメとして分かりやすく提示してくれている。SFに興味が無い人にとっては考え過ぎと笑われるかもしれないし、作者には「なにのことやら」と怒られるかもしれないが、この点だけ診ても蟲師という作品は確実にSFなのである。それはベースに科学的リアリティがあるってこと。見た目の雰囲気だけで評価したんじゃ、もったいない作品だと思う。「へ~、そんな作り話も面白いよね」じゃ済まされない未知が詰まっているのだ。

淡幽は言う。「わたしは生物と蟲が共に生きている話をもっと聞きたい」と。

萌えエピソードつながりで『春と嘯く』回の“すず”&“ミハル”姉弟と蟲“空吹”の共生についてを検証してみたい。“春まがい”とも呼ばれる空吹は、その匂いよって冬の到来で命の息吹を弱くした動植物を誘い、まがい物の春と錯で活力を取り戻した動植物の精気を吸収して、本物の春まで眠らせる。魅入られたミハルは空吹とのリンクを断ち切れるだろうか。可能性の後日談……姉弟は生涯にわたり空吹と共生するのだろう。そして、冬になれば妹弟の様子を見るためにギンコは空吹が巣食う山奥にやってくる。ギンコも春の夢サイクルに人生を取り込まれたということだ。真の正体を明かすことなく人体に寄り添うミクロ存在は普通にある。逆に人間はマクロ存在に内包されているかもしれない。歴代の有能な蟲師たちが解き明かした蟲の正体も一部と考えたほうが良い。だからこそギンコの現場実践や狩房家の記録継承には価値がある。蟲探究は人間の進化の鍵だ。それは我々地球人類が放置してきた魂の科学的解錠と同様だ。蟲師を科学者のように診える演出をしているのは、そういった趣旨のことであろう。ギンコから学んだミハルが成長すれば空吹との関係は変化するだろうか?サイクルからの解脱構造は他のエピソードでも語られている。きっと妹弟の未来は本物の幸せに充ちている。

蟲も、虫も、ファージも、そして魂も。人間にとって計り知れない存在であることを認めることから真の探究が始まる。理解できていなくても人生は続いていく。しかし、進化を望むのならば、哲学や宗教における生命科学の必要性を定義するべきだろう。蟲師を見ているとマクロの答えはミクロに有ることを思い出させてくれる。というよりは自己の傍にある謎をほったらかしにしている地球人類の未来は、なかなかハードルが高くて多そうだということだ。要するに非効率。ギンコのような在り方が急がば回れとも思わないが、状況を正しく把握することは重要である。知と通じる狩房家の書技は、全ての生命に死をもたらす『禁種の蟲』を封ずるのではなく許しを得ているのだと思う。蟲への理解を示すことで、進化の道が開かれるのだ。ぎりぎり乗り超えられる試練としてのハードルが用意されるのは意図的と言えるだろう。驚異なる自然の力を前にしては、そんな都合の良いことは確率的に有り得ないと考えたほうが妥当である。

さて、時間サイクルでいえば人生の回廊をぐるぐると廻るエピソード『香る闇』ではあるがSF構造としては分かりやす過ぎる。蟲の機能として診てみれば全ての蟲がそれぞれのサイクルを人間に付与している。