彼方のアストラ SFへの想い

ボクがSFにどれだけ詳しいかはさておき、SFはエンターテインメントの範疇であろうことを前提として考えてみようと思う。また、SF浸透が今一な日本にSFを普及させたいと、ボクが強く願っていることも前提となる。

最近、SF好きな友人と会うと、よく話題に出るのが『彼方のアストラ』だ。例えば反重力というキーワードが分かりやすく出ていること自体が好評価だ。こういう書き方をすると脊髄反射的に突っ込みたくなるのは気持ちは分かるので念のため言っておくが、 そこに反重力の実現性はあまり関係ない。 反重力については自分の創作で、地球人類が達成するとしたら、どういう経緯か、そして何時頃が良いか、いつも考えている。というかプロでもアマでもSFに取り組もうとしている人は誰でもそれなりに調べていると思うよ。ただ、それをいちいち前置き的に言うか言わないかの違いなんだろう。まあ、基本的にSFは小難しいという反応があるということが事前に分かってるわけで、エンタメ戦略として小難しいことを言わないのは理解できるし妥当だとも思う。作中で全ての人が納得するように全ての要素を説明するなんて有り得ないよね。もはや、それはエンタメたるSFではない。創作する者、創作を単に愛でる者、それぞれの言い分はあると思うが、そもそもが2019年の地球人類の成果をもって科学の限界を語ったり、SFの表現を狭める行為は愚行なのは間違いない。

SF論というよりエンタメ論ではあるが
ジョージ・ルーカスの見解についてもリンクしておく。


どうしても突っ込みたくなるときはボクらの世界によく似てるけど実は物理法則が違うマルチバースの他ユニバースの話だと思えば良いのではないかな。物理法則が違うんだから何を言っても通用しないぜ。ねえ、どうだい?ルーカスの脳内世界よりは納得できないかい?

まあ作中で矛盾している系は作者の責だろうが、それはSFだからというより創作自体の手抜かりだ。それでも、過失ってことで深くて広い懐で包んであげてほしいなあ。日本では弱小勢力であるSFにおいては、SF好きはSF創作者を育てないといけない。ボクも創作者なんで宜しく頼む。

さてさて、よろしくバリアーをはったところで、話を『彼方のアストラ』に戻そう。ボクがまずこの作品を観て思ったことは、こういう作品が小学生に読まれたら日本SFの未来は明るいだろうなあ、ということ。いや日本の未来が明かるくなる。で、日本が明かるくなれば世界も明るくなるという寸法だ。だから、科学やSFに詳しいと思われる人が一方的にケチョンケチョンに論評している状況を見て、とても悲しくなったよ。そんなのを小学生やSF初心者が見たらどう思うのか?論評の言葉選びを診てみるに、そういう切実で悩ましい思考フィルターは一切通していないのだろうと思う。はっきりいって憎悪にしか感じられない殴り書きのようだ。同じSF好きとして優しい目線で振る舞うべきを失念している。もし「自分の基準に達しない物は他に読ませないことが使命」とか思ってるのだとしたら、それは未来を夢見る者たちにとって大きなお世話だろう。SFなんだから皆、自分で判断すればいい。ウルトラマン研究本などは突っ込む反面で愛に充ちているから誰しもが楽しく読めるのだ。SFに限ったことではないが批判はセンスよくやることが建設的な未来につながる。そういう観点では、日本SFの未来のために本気を出したライトスタッフたるSF警察が期待できるのは間違いない。なにしろ勢いで何でも有りにできるファンタジーではなく、小難しいけど21世紀のリアルとリンクしてるSFなんだからさ。

日頃の鬱憤をぶちまけてしまったけど
SFの父、ジュール・ヴェルヌの至高のお言葉
「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」

で、締めくくるとしよう。